【真実の歴史】

— 第9話 ―

◆ 真珠湾攻撃の本質 ◆

1941年(昭和16年)12月8日未明。

 山本五十六を総司令官とする、日本海軍の連合艦隊が真珠湾への先制攻撃を行いました。日本の攻撃によってアメリカの国民は復讐の怒りに燃え上がり、この日から日米の全面戦争が始まりました。戦後生まれの日本人全員が何度も教えられ、何度も映画やドラマで視せられてきた、日米戦争の開戦の日です。この日は日本の未来だけではなく、世界中の未来を変えてしまった日になりました。

 この時、イギリスの首相だったウィンストン・チャーチルは、この先制攻撃の報告を聞いて歓喜し、アメリカのルーズベルト大統領に良くやってくれたと感謝の意を伝えたそうです。戦争を仕掛けられて歓喜するなどとは、アタマがおかしいのでしょうか。もちろんチャーチルは狂ったわけでも気が触れたわけでもありません。実は、日本が行ったアメリカへの先制攻撃はグローバリズム勢力の悲願でもあり、真珠湾攻撃の持つ本当の意味は、彼らが構築してきた世界の構造を、完成に向けて大きく前進させるための大掛かりな仕掛けでした。

 つまり、世界中を巻き込む大掛かりな仕掛けの中で始まったのが日米戦争の本質です。そして、この時代のイギリスの首相もアメリカの大統領も、大国の指導者として歴史に名を残した政治家たちの正体とは、すでにこの頃から例外なくグローバリズム勢力の代理人であり、彼らの駒としての存在であり、チャーチルはこの時を待ちわびていたのです。

 日本が先にアメリカを攻撃した事によって、それまで表向きは中立の立場をとっていたアメリカは、イギリス陣営の連合国側に加勢して参戦できる大義名分を得ることができました。日本からの先制攻撃を受けたことによって、アメリカは堂々とヨーロッパに出兵して、イギリスと共同でドイツとイタリアを相手に戦える状況になったのです。

 ヨーロッパで大戦が始まった1939年、当初イギリス側の陣営にはフランスとオランダが付いていました。しかし、この2国は早々にドイツに降伏し、指導者たちはイギリスに渡って亡命政権を存続させていました。イギリスは、ドイツに降伏して逃げ込んできた2国の亡命政府を抱えながら、ドイツとイタリアに対峙して踏みとどまっていた状況でした。

 チャーチルが歓喜したのは、日本からのアメリカへの先制攻撃によって、世界最強国のアメリカが、イギリスの味方となって参戦できる狙い通りの展開になったからです。当時の日本は3国同盟によって、ドイツ、イタリアと同盟関係にありました。つまり、日本、ドイツ、イタリアの3国のどこか一つの国がアメリカと火ぶたを切れば、アメリカがイギリス陣営に立って参戦できる口実が生まれるというわけです。

 アメリカを戦争に巻き込むためには、日本から先にアメリカに手を出さなければアメリカが参戦出来ないことをチャーチルは良く理解していました。その一方でドイツとイタリアは、世界最強国のアメリカがイギリス陣営で参戦してくるような展開は望んでいない状況でした。これが、日米開戦当時のヨーロッパの状況でした。

 もう一方のアメリカ国内では、ヨーロッパの戦争に加担してアメリカの若者を犠牲にするなと、アメリカの国民は戦争に巻き込まれることを頑なに拒んでいました。同じように日本に対しても、満州や中国大陸での揉め事に関わって日本と戦火を交えるような愚かな行為は絶対に支持しないと、国民の反戦気運が高まっていました。

 反戦を望んでいたアメリカの国民は、日本が突如ハワイに攻撃を仕掛けてきたことに誰もが激怒しました。これは正義の戦争だと、リメンバー・パール・ハーバーの戦争プロパガンダでルーズベルト大統領とメディアが連携して国民の戦争支持を煽りました。反戦だったアメリカ国民はこれに見事に騙され、卑怯にも奇襲攻撃を仕掛けてきた日本に正義の鉄槌を下せと、アメリカ国内の反戦気運は一気に吹き飛びました。

 日本は、このような展開に繋がる真珠湾攻撃だけは、絶対にやってはならない攻撃だったのです。もはや世界には、本気の戦闘モードになったアメリカを相手に勝てる国など存在しないほど、当時のアメリカは強大な国になっていたのです。だからこそ、ドイツもイタリアもアメリカを敵に回すことだけは避けたかったのです。

 しかしそれは、当時の日本の指導者の多くも同じでした。陸海軍の指導者はもちろん、天皇陛下も最後までアメリカとの開戦には反対でした。アメリカを相手に戦争をするなどあり得ない、それは日本を滅ぼす戦争になるという共通認識だったのです。にもかかわらず、海軍の真珠湾攻撃によってアメリカとの戦争が始まってしまいました。

 当時の大日本帝国としては、勝ち目のない相手と知りながら、なぜ海軍に真珠湾の攻撃命令が出されたのでしょうか。そして、最終的に誰がその攻撃命令を出したのでしょうか。この重要な歴史の真実は、学校でもテレビでも絶対に触れることができません。なぜなら、日本人に知られては都合の悪い、戦後一貫して隠し続けてきた最大のタブーなのです。

 私たち戦後の日本人に教えることができない歴史、知られては困る真実の歴史とはどういう歴史なのでしょうか。それを知るために、まずは開戦に踏み切るまでの日本の状況を正しく理解しておく必要があると思われます。

◆ 国を護る者、国を滅ぼす者 ◆

 あらゆる資源を海外からの輸入に依存している日本の国内事情は、歴史を通してずっと共通しています。開戦前の大日本帝国は、侵略行為を続けたことでアメリカやイギリスから経済制裁を受け、石油の輸出を完全に止められたという歴史を学校でもテレビからも教えられてきました。それが結果として、アメリカとの開戦に踏み切った原因とされています。

 この石油輸出禁止の制裁を受けた原因として、真珠湾攻撃の5か月ほど前、1941年(昭和16年)7月に「南部仏印進駐」という日本陸軍によるベトナム南部への進軍がありました。これがアメリカによる石油の禁輸を招いた侵攻と言われています。さらにその前年の1940年(昭和15年)9月にも「北部仏印進駐」というベトナム北部への進軍がありました。これらの日本陸軍による進軍行為は歴史的な事実として本当に起きたことです。

 しかし、1940年の「北部仏印進駐」と1941年の「南部仏印進駐」は、歴史的に全く意味の違う出来事です。しかし陸軍の行った進軍は、戦後の歴史教育では全て侵略行為とされてきました。この侵略の制裁として、日本は各国からABCD包囲網という禁輸制裁を受けて困窮し、アメリカを相手に無謀な戦争を始めたとされています。しかし、この時に本当は何が起きていたのかを正しく教えないロジックこそ、東京裁判史観による洗脳教育なのです。

 まず「仏印」とは、当時のフランス領インドシナの略称で、現在のベトナムにあたります。この地域は、フランスが長い間ベトナムの多くの人を労働奴隷として植民地にしていた地域です。ベトナム南部は南部仏印と呼ばれ、ベトナム北部は北部仏印と呼ばれていました。しかし、ベトナムを300年に渡って植民地支配をしていたフランスは1940年7月、日本の陸軍が進軍を始める前に、日本の同盟国であるドイツに降伏していました。

 フランスがドイツに降伏した直後の1940年(昭和15年)9月、日本の陸軍は3年前に始まった支那事変(日中戦争)によって中国大陸に展開していました。この時に、陸軍はある目的のため、中国南部からベトナム北部に進軍しました。この支那事変(日中戦争)は、大日本帝国を滅亡させたいアメリカやイギリスの裏工作によって泥沼化しており、重慶に政府を置く蒋介石の国民党軍との戦いが長期化していたのです。

 当時の支那事変(日中戦争)が何年も長期化していた大きな理由は、アメリカやイギリスが、フランスの植民地であったベトナム北部の山岳路を通じて、蒋介石政権を裏から支援するための武器弾薬などの物資を蒋介石のいる重慶に送り届けていたからです。蒋介石政権を支援していたこのような補給路は「援蒋ルート」と呼ばれ、4つあった援蒋ルートのうちで最大のルートがベトナム北部にありました。

 長引く支那事変(日中戦争)を一日も早く終わらせたい陸軍は、この援蒋ルートを遮断する目的で中国南部からベトナム北部に進軍しました。これが1940年(昭和15年)9月の「北部仏印進駐」です。しかし、他にもビルマルートと香港ルート、ソ連ルートが存在し、蔣介石との戦争はなかなか収束しない状況でした。陸軍は、蒋介石を支援していたアメリカやイギリスまでも敵に回して戦うつもりはなく、それは日本の戦力では無理なことも理解していました。

 この1940年の北部仏印進駐の制裁として、アメリカは日本に対して「石油以外」の資源の輸出を規制する経済制裁を発動しました。これがさらに多くの禁輸品目に拡大されると、将来的にアメリカから石油まで輸出規制をされるような事態も想定される状況になりました。戦前の日本は石油のほとんどをアメリカからの輸入に頼っていた国であり、万が一アメリカに石油の禁輸制裁をされれば、日本国内には石油が入らなくなってしまいます。

 そのような最悪の状況も想定し、もしアメリカから石油を止められた場合には、蘭領東インドにある油田を確保すべきだと日本の海軍が主張し始めました。蘭領東インドとは、オランダの植民地だった現在のインドネシアです。オランダもフランスと同様にすでにドイツに降伏しており、オランダの植民地だったインドネシアには豊富な石油を埋蔵している油田がありました。海軍はこの油田に目をつけていました。

 海軍は、石油が入らない最悪の場合には、この油田を確保する軍事作戦行動を迅速に開始できるように、ベトナム北部に進軍した陸軍の部隊をベトナム南部まで進軍させる「南進」をするべきだと主張していました。ベトナム南部と南シナ海を挟んだ対岸は、油田のあるインドネシアです。しかし、ベトナム南部への「南進」はさらにアメリカを刺激する恐れがあり、陸軍も閣僚たちの多くも海軍の主張する「南進」には反対の立場でした。

 なぜなら、インドネシアのすぐ北側にはアメリカの植民地のフィリピンがあるからです。陸軍の部隊をベトナム南部まで移動させる「南進」をすることは、アメリカに対しての戦闘準備と受け止められかねない行動であり、あらぬ疑いを持たれれば本当に石油の禁輸制裁を招くリスクがありました。援蔣ルートを遮断する目的でベトナム北部に進軍した北部仏印進駐とは全く意味が違い、日本にしてみればリスクが大きすぎるのです。

 これに対して海軍の軍令部総長の永野修身(ながのおさみ)という人物は、アメリカと一戦を交えても油田確保の準備をしておくべきだと、ベトナム南部への「南進」を強硬に主張したのです。これには陸軍首脳も閣僚たちも仰天し、アメリカを相手に戦うなどとんでもない、海軍はいったい何を考えているのだと、意見が大きく割れました。陸軍も政府首脳陣も、日本のリーダーたちの多くはアメリカとだけは絶対に事を荒立てたくなかったのです。

 海軍の「南進」に対して陸軍の主張は、海軍とは逆の「北進」という主張でした。陸軍は、アメリカやイギリスを刺激するような「南進」ではなく、つい先頃ドイツと交戦が始まったソ連を攻め、日本とドイツでソ連を東西から挟み撃ちにする戦略となる「北進」をするべきだと主張しました。海軍が欲しがる石油はソ連の領有する樺太北部にも油田があり、「北進」によってソ連の油田を確保すれば、万が一アメリカから石油を止められても日本は石油の自給自足が可能になるのです。さらに、ソ連が支援している援蔣ルートであるソ連ルートの遮断が可能になり、日本としては支那事変(日中戦争)の早期終結も期待できるのです。

 英米とは戦わないとする「北進論」を主張する陸軍に対し、石油確保のためには英米との戦いも辞さないとする「南進論」を主張する海軍との意見の対立によって、日本の方針はなかなか決まりませんでした。樺太北部の油田確保を陸軍が提案しても、海軍はなぜか南進論を主張し続けました。そしてこの顛末は、残念ながら海軍の意見が通り、1941年(昭和16年)7月に「南部仏印進駐」つまり「南進」を実行する方針が決定してしまいました。

 この方針を決定したのが、当時の首相だった近衛文麿(このえふみまろ)という人物です。近衛首相は、なぜかこの方針の決定をわざわざアメリカ側に通告しました。この通告を受け取ったアメリカのルーズベルト大統領は、待っていましたとばかりに日本への追加制裁と石油の輸出禁止の方針を決定しました。陸軍はこの時点ではまだベトナム北部におり、ベトナム南部には進軍していないのです。アメリカに南進の方針を通告しただけなのです。

 近衛首相はさらに、南進の方針を決定する直前に、北進論の支持を曲げなかった外務大臣を外すための内閣改造も行いました。このとき近衛首相に更迭された外務大臣が、松岡洋右(まつおかようすけ)という人物です。松岡は、陸軍の主張する北進論こそが日本が生き延びるための戦略であり、英米と衝突するリスクの高い南進論は絶対に認められない、英米とは絶対に戦ってはならないという立場を変えませんでした。

 近衛首相は、南進論に強硬に反対する松岡外務大臣だけを外すため、それだけの目的で内閣改造を実施したようでした。なぜなら、外務大臣以外は全て同じ顔ぶれの閣僚が再任され、松岡の後任には偶然なのか、海軍大将まで上り詰めた豊田貞次郎という海軍人脈の人物が新たに外務大臣に就任しました。近衛首相はこの豊田外務大臣に命じ、速やかにルーズベルト大統領に日本の南進の方針を通告させました。

 近衛首相の真意が英米との戦争回避であったのなら、日本への石油禁輸制裁の方針が分かった時点で南進の方針を撤回し、ベトナム南部への陸軍の進駐を中止することも出来たはずです。海軍の主張を選択し、アメリカから石油の輸出が禁止されると分かってから、それでも方針を変えずに南進を実行したのが時系列での事実です。つまり、近衛文麿は日本が追い込まれる展開を知っていながら、あえて南進を実行したというわけです。

 松岡洋右が陸軍の意見に賛同し、北進論を強く支持したこの時の様子は、戦後の歴史教育では松岡の閣内での暴走とまで言われ、わけの分からない松岡外務大臣の暴走を止めるために、近衛首相が先手を打って内閣の改造を実施したという詭弁まであります。これが戦後の日本人に教えられている、東京裁判史観による歴史の洗脳教育です

 この時のプロセスは、日米開戦の原因とされる「石油の禁輸」に発展した重要な局面でありながら、私たち戦後の日本人には正しい経緯を教えられることがありません。なぜならこのプロセスは、隠さなければならない歴史だからです。グローバリズム勢力には、この歴史を隠さなければならない理由があるのです。その理由とは、日本人であるはずの近衛文麿や永野修身の本当の目的が、日本をアメリカとの開戦に向かわせることだったからです

 日本の裏切り者たちは、日本の政府や軍部の中枢に身を置きながら、本心ではアメリカとの戦争を望んでいたのです。日本が追い込まれることになる南進をあえて選択した真の狙いは、石油の禁輸で欠乏し、行き場のなくなった日本をアメリカとの開戦に導くための工作でした。日本が追い込まれていく展開は、アメリカやイギリスの背後にいるグローバリズム勢力の期待していた展開であり、彼らはこの歴史の一部始終を全て把握しているのです。

 私たち戦後の日本人は、終戦後に彼らが仕掛けた東京裁判史観の洗脳によって真実の歴史を消された国民です。なぜアメリカという強大な国と戦ったのか、その本当の理由を誰も教えてくれない、戦後の日本という世界で育てられました。そしてアメリカとの戦争は、全てが日本陸軍の軍国主義による侵略戦争の歴史だと、一方的に教えられて育てられました。

 この歴史のどこに侵略戦争があるのでしょうか。真実の歴史の中で起きていたことは、グローバリズム勢力の深い策謀の中で、国を護る者たちと国を滅ぼす者たちが繰り広げていた攻防の歴史です。そして、国を護ろうとした者は戦後いつまでも悪者とされ、裏切り者たちの罠に次々と落とされていったのが真実の歴史です。

◆ 秋丸機関と開戦の決断 ◆

 近衛首相と海軍トップの永野修身による「南進」工作によって、ついに日本は石油が入らない状況に追い込まれました。その後、アメリカの日本に対する経済制裁に追随し、イギリスやオランダも日本に対しての禁輸を決めました。いわゆるABCD包囲網によって、日本は海外からのあらゆる資源の輸入が遮断されました。ここから真珠湾攻撃までの約4カ月が、現代までの日本の未来を決定した運命の4カ月となりました。

 この間、政府と軍部首脳による大本営政府連絡会議や、天皇陛下もご臨席される御前会議が何度も開かれました。この4カ月で最終的に決定された日本の指導者たちの決断は、戦後の東京裁判史観によって隠されてきました。なぜなら、追い詰められた日本の打開策を決定した当時の指導者たちは、誰もが真珠湾への攻撃などするつもりがなかったからです。

 この時の重要な決断を下す2年ほど前から、日本陸軍の内部では、ここまで日本が追い込まれるような最悪の状況も視野に入れ、経済や生産力の観点からイギリスやアメリカとの戦争をシミュレーションしていた極秘の組織がありました。それが、秋丸機関と呼ばれた陸軍省戦争経済研究班です。この組織は日米開戦の直前までに250もの研究報告書をまとめ上げており、この組織の存在や研究報告書の存在は、陸軍上層部のごく一部にしか知られていない最高機密の研究機関でした。

 しかし、日本が追い込まれた状況に直面したことで、極秘の研究資料がついに日本の指導者たちに披露されることになりました。この秋丸機関の最終報告書に基づいた日本の進むべき戦略は、まさに奥の手とも言える戦略でした。そしてこの戦略での重要なポイントは、英米を相手に開戦した場合、アメリカとはフィリピン辺りで小競り合いになったとしても、全面戦争だけは絶対に避けるという戦略でした。日本が攻略すべきは、イギリスと蒋介石の中華民国であり、アメリカとの大規模な戦闘だけは絶対に回避するという戦略でした。

 さらに、アメリカに対しての戦略は戦闘ではなく心理戦だという内容です。秋丸機関の研究者たちは、アメリカの国民感情は反戦であり、戦争に反対している国民感情を諜報活動で維持し続け、アメリカ国民の心理状態を戦争に向けないことが重要な戦略だとしていました。仮にフィリピンを日本が一時的に占領したことで、アメリカ人の反日感情が極端に悪化するような状況になるのなら、すぐに中立化してアメリカに返還するという方針でした。

 もはやアメリカとは物量の差が大きすぎて、どのような手段を使っても勝負にならないという研究結果でした。その研究から、日本が進むべき戦略と方角は東の太平洋ではなく、南のインドネシアの油田を確保してから西に向けて進軍し、ビルマやインドなどのイギリスの植民地を落とし、イギリス本国へのインド洋の補給路を遮断するという戦略でした。

 つまり、アメリカとは真正面から戦うことは避け、アメリカが日本に対して本気の戦闘状態になる前にイギリスを攻略し、日本が少しでも有利な状況で英米と終戦の講和に持ち込む以外、日本が生き延びる道はないという研究結果でした。この時、もはや日本の指導者たちに残されていた選択肢は二つだけでした。

 一つは英米に対し、有名なハル・ノートの要求を無条件で飲み、開国以来続けた日本の努力を全て無にする、屈辱的な屈服を選択する道。もう一つは、大日本帝国が生き延びるための戦略に沿って、英米と開戦を決意する選択。この究極の二者択一を迫られるほど、当時の日本はアメリカから追い詰められていました。

 日本が生き延びるための戦略を導き出した秋丸機関の研究は、最終的に日本が進む国家戦略として、大日本帝国の意思決定機関である大本営政府連絡会議で正式に採用されました。日本は南に降りて油田を確保し、その後は西に向かってイギリスを攻略するという方針が、日本が生き残るための国家戦略として決定されたのです。指導者たちは、この戦略の決定を天皇陛下に報告し、陛下から最終的な開戦の許可を得たのです。

 イギリスやアメリカとの開戦に最後まで反対だった天皇陛下は、困窮する日本の状況が打開できるのなら開戦もやむを得ないと、不本意ながら指導者たちの決断に開戦の許可を下しました。このとき陛下が下した開戦の許可は、アメリカとの全面戦争ではありません。秋丸機関の最終報告書を元に指導者たちが決断した、日本が生き残る戦略を遂行するための開戦、これに許可を出したのです。

 追い詰められた日本の活路を開くこの戦略は、その通りに実行されていればアメリカと太平洋で全面戦争を戦うような歴史にはならないはずでした。なぜなら、この戦略のどこを探しても真珠湾を攻撃するような戦略はなかったからです。どうして戦略通りに日本は進めなかったのでしょうか。なぜ、西のインド洋に向かうはずの戦略が、太平洋でアメリカと戦う歴史になったのでしょうか。

 実は秋丸機関には、秘密裏に組織された時から仕掛けられていた、隠された役割がありました。それは、日本が近衛文麿と海軍トップの永野修身が工作した「南進」を選択したあと、そこから英米との戦争に発展したとしても、日本が生き残れるビジョンを天皇陛下に示し、英米との開戦に反対の陛下から開戦の許可を取り付けるための、その根拠となる戦略をあらかじめ準備する研究をしておくことが、この組織の隠されていた本当の役割でした。

 開戦後、秋丸機関が導き出した優れた戦略通りに日本が行動していたのなら、本当にイギリスを陥落して、大東亜戦争を勝ち抜いた可能性がありました。しかし同時に、その戦略通りには進ませない、戦略を破壊するための仕掛けが最初からビルトインされていました。陸軍の秘密研究機関であった秋丸機関の中枢には、経済分野の権威でもある共産主義者たちが潜り込んでおり、この共産主義者たちはアメリカとの戦争で日本を敗戦に追い込み、敗戦を利用した共産革命、いわば敗戦革命を望んでいた共産革命分子でした。

 日本がアメリカやイギリスと開戦するための最も高いハードルは、英米との開戦を絶対に許可しない天皇陛下の存在でした。英米を相手に開戦しても、日本が生き残れる現実的な戦略とビジョンを策定し、陛下が納得できる戦争戦略を示して開戦の許可さえ引き出せば、あとは戦略を破壊してしまえば良いという算段です。秋丸機関の中枢に潜り込んでいた共産主義者たちの真の目的は、敗戦革命による大日本帝国の破壊と天皇家の断絶でした。

 共産革命を夢見る、この共産主義者たちを最大限に利用したのが、首相の近衛文麿でした。共産主義など全く眼中にない近衛文麿の真の目的は、大日本帝国を崩壊させ、天皇家を断絶させた後に進める戦後日本の再構築を、自らが統治者となって行う、戦後日本の国家元首の乗っ取りでした。近衛家は藤原家直系の公家の家系であり、歴史的にも天皇家の藩屏として皇室をお護りする役目の家柄であるにもかかわらず、この時期に現れた近衛文麿が抱いた謀反的な野望が、アメリカとの全面戦争を招いた日本国内の最も大きな原因でした。

 秋丸機関の共産主義者たちすら知らない、戦略を破壊するための仕掛けこそ、山本五十六が準備していた真珠湾攻撃という仕掛けでした。この仕掛けを、近衛文麿を中心とする裏切り者たちが着々と準備していました。裏切り者たちは政府や海軍だけではなく、秋丸機関の中枢にも入り込んでいました。そして言論界からプロパガンダを発信して戦争を煽る者、グローバリズム勢力と直結した人脈を持つ者、真珠湾攻撃の準備をする者、多くの裏切り者たちによって、大日本帝国は滅びの道に導かれていったのです。

 東京裁判史観による洗脳教育の最も重要な部分は、この開戦を決断するまでの経緯を隠し、絶対に正しく教えないという点です。秋丸機関の存在も、この組織の研究報告書も、この組織の隠された役割も、全ては戦後のGHQによる統治の中で消されました。そして、追い詰められた日本が生き延びるための戦略として指導者たちが選択した愚かな決断、それが真珠湾攻撃だったと歴史の事実をすり替えました。この歪曲した歴史のロジックを、現在でもしつこく私たちに記憶させ続けているグローバリズム勢力の意図に、歴史の洗脳をいつまでも続ける本当の意図に、私たちは今こそ気付く必要があるのです。

◆ ニイタカヤマノボレ 一二〇八 ◆

 開戦当時、日本の最高峰は富士山ではなく、台湾にある新高山(玉山)と呼ばれていた標高3952mの山でした。ニイタカヤマノボレ一二〇八の暗号文は、海軍に真珠湾攻撃の実行を命じた暗号文としてあまりにも有名です。大日本帝国を滅ぼすための真珠湾攻撃作戦は、山本五十六連合艦隊司令長官の発案で実行されたと言われています。

 戦後語られている山本五十六の人物像は、先見性があり、日米開戦に反対し続けていた悲劇のヒーローのようなイメージが確立されており、現在でも政治家や企業の経営者など、多くの指導的立場の人たちから尊敬されている人物です。しかしこれは、歴史を正しく教えられなかった戦後の日本人の典型なのかも知れません。なぜなら、ここまで述べてきた通り、真珠湾攻撃は大日本帝国を滅ぼす愚策であり、日米を全面戦争に導いた、両国から非難されるべき歴史の汚点でもあるからです。

 山本は開戦の一年ほど前から、海軍大臣に真珠湾攻撃の必要性を進言し始めました。山本の考えでは、初戦で真珠湾軍港のアメリカ太平洋艦隊を空母ごと叩き、反戦気運が高いアメリカ人の戦意を喪失させてしまえば、日本との戦争意欲がなくなるはずだという、いわゆる先手必勝の考え方でした。しかし現実はその真逆であり、反戦平和を願っていたアメリカ人の復讐心に火を点け、むしろ日本と戦う意欲を煽りたてる結果になりました。

 山本は、真珠湾攻撃を自身の固い信念だとして一向に曲げず、己の職を賭してもこの信念を貫くという考えを部下や周囲にも話していました。つまり、海軍が真珠湾攻撃を認めないなら、自分は連合艦隊の司令長官の職を辞めると周囲を恫喝していたのです。山本はこれを何度も海軍上層部にも進言し続けました。これは、日本の指導者たちが最終的に選択した、秋丸機関の戦略とは全く逆の考え方でもありました。

 指導者たちが秋丸機関の戦略を採用して開戦の決断をした後になっても、山本は真珠湾攻撃に固執した考えを曲げませんでした。この連合艦隊司令長官に対し、各艦隊の長官や参謀長など多くの指揮官たちも疑問を抱き、真珠湾攻撃に反対しました。山本以外の指揮官たちも、真珠湾攻撃が理に合わない危険な作戦だと判断していたからです。しかし、総司令官である山本は、それでも固い信念だと言い張り、真珠湾攻撃の考えを曲げませんでした。

 これが、開戦の二ヶ月ほど前の海軍内の実情でした。この頃の海軍では、理に合わない真珠湾攻撃に反対した海軍軍人たちの多くが追放や左遷という懲罰人事を受けました。これを戦後の東京裁判史観では、開戦に反対していた海軍の多くの軍人が懲罰を受けたと広められています。だから海軍は戦争に反対していたというロジックです。開戦ではなく、山本五十六が固執している真珠湾攻撃に反対したから、だから懲罰人事を受けたのです。

 上手な嘘のつき方というのがあるそうです。事実に少しだけ嘘を織り交ぜて話すと、その話の全体像が嘘であることがバレにくいというものです。私たち戦後の日本人を騙し続ける歴史教育のロジックは、まさに上手な嘘のように本当の歴史を少しずつ歪曲し、全体像を嘘の歴史に書き換えている、恐ろしいほど巧妙に工夫された組み立て方をされています。これが世界の構造を組み立ててきた、グローバリズム勢力が持っている知略なのです。

 かくして、山本五十六の固い信念が成就した真珠湾攻撃が実行され、仇討ちに燃えるアメリカとの全面戦争の歴史が始まりました。真珠湾攻撃が間違いであったことは歴史が証明しています。海軍内部にも、これに反対した多くの軍人がいたにもかかわらず、山本五十六の暴走は止められませんでした。なぜなら、真珠湾攻撃という仕掛けの持つ本当の意味は、大日本帝国が存続するための秋丸機関の戦略を根底から覆すことであり、それは最初から仕組まれていた日本を滅ぼす大きな仕掛けであったからです。そこには海軍よりも、大日本帝国よりも、はるかに大きな力と意図が働いていたからなのです。

 秋丸機関の最終報告書を元にした、大日本帝国が生き延びるための開戦許可を、日本の指導者たちは天皇陛下から許可されたはずでした。その戦略には、真珠湾を攻撃するという作戦はどこにも存在しない戦略でした。山本五十六の立場は戦場での現場責任者であり、作戦決行を命じる海軍のトップではありません。実際には山本五十六がどんなに真珠湾攻撃をやりたくても、誰かが山本に攻撃命令を出さない限り、作戦実行は出来なかったのです。

 山本五十六に真珠湾攻撃の命令を出した人物こそ、近衛文麿と南進論の工作を進めた海軍軍令部総長、永野修身でした。この事実は終戦後に東京裁判が行われていた際、国際検事局が永野修身本人から聴取した供述調書記録として国立国会図書館に保存してあり、歴史的にも間違いのない事実として記録が残されています。

 東京裁判の検事局も、開戦当時に海軍の作戦指揮のトップにいた永野修身が、なぜ真珠湾攻撃を命令したのか、その理由を聞き出したかったのです。なぜなら、開戦当時のアメリカの国内世論は戦争反対であり、日本の真珠湾攻撃がなければここまで激しい全面戦争にはならなかったはずだと、理屈に合わない行為だと、アメリカ国民の疑問でもあったからです。

 検事の問い掛けに永野修身が答えた攻撃命令の理由とは、真珠湾攻撃を実行しないのなら、連合艦隊司令長官の職を辞めると山本五十六に脅されたからだと答えました。永野はさらに、海軍も真珠湾への攻撃は理に合わないことを理解していたが、現場の責任者に辞任されては困るので、山本五十六の真珠湾攻撃に同意して実行させたと供述したのです。

 この供述は、正式な調書記録として現在も国会図書館に残されている正確な史実です。永野修身の供述内容を裏付ける真珠湾攻撃作戦の実行者、山本五十六はこの時すでに他界しています。山本五十六は永野の供述の3年前、ニューギニアの前線を視察中に、搭乗していた航空機ごと米軍機に撃墜されて戦死したとされています。

 その山本五十六は、実は開戦直前の8月に連合艦隊司令長官の任期が切れていました。その任期はなぜか不自然にも慣例を無視して継続され、12月8日の真珠湾攻撃作戦が実行されました。そして作戦実行を命じた「ニイタカヤマノボレ一二〇八」の暗号文も、最初からアメリカ海軍に傍受され、内容も解読されていました。

 それもそのはずです。山本五十六の連合艦隊が真珠湾に向かっていることも、日本の暗号電文も、秋丸機関の戦略通りにはさせない動きを取ってきたことも、グローバリズム勢力の人脈を持つ彼らの代理人たちや共産主義者のスパイたちを通じて、アメリカにもイギリスにも、そしてソ連にも、大日本帝国の情報は全て流されていたからです。

 歴史の事実として、真珠湾にはタイミング良くアメリカ海軍の空母が一隻もいませんでした。つまり、連合艦隊の攻撃を知っていたアメリカの空母は事前に避難していたわけです。この時アメリカの軍人たちには山本五十六の攻撃は知らされておりません。これを知っていたのはグローバリズム勢力の代理人であるルーズベルト大統領と、その大統領さえ指導する立場の存在、つまり、歴史の表舞台には決して現れない高位の代理人たちだけでした。

 永野修身は国際検事局の聴取の後、収監されていた巣鴨プリズンの独房で持病の肺炎が悪化し、移送された米軍の野戦病院内で病死したとされています。永野の死後、遺族が開戦当時の資料や手紙などが含まれた遺品を受け取り、郷里に戻る列車内で、偶然にもその遺品は何者かに盗まれてしまい、二度と見つかることはありませんでした。

 そして開戦直前まで首相を務めていた近衛文麿も、戦犯の容疑者として国際検事局から聴取されることになりました。近衛は東京裁判を本気で戦うつもりで用意周到な準備をしておきながら、巣鴨プリズンに収監される当日の未明、自宅の書斎で青酸カリを飲み、服毒自殺をしたとされています。自殺現場でのGHQの検死官による実況見分は、不自然なほど短時間で済まされたと言われています。近衛の不自然な自殺も、詳細は消されたままです。

 近衛文麿の自殺も真珠湾攻撃と同様に、戦後の日本人に植え付けておきたい洗脳なのでしょう。なぜか自殺後の本人の写真がすぐに公開され、多くの映画やドラマでも近衛の自殺だけは必ず取り上げるように制作されています。開戦の真実を知っているはずの裏切り者たちは、終戦直後に不自然なタイミングで最期を迎え、この世を去っていきました。

 真実の歴史を知っている日本人の中には、大日本帝国を破滅に導く真珠湾攻撃を行った山本五十六を、暴走したヒットマンと呼ぶ人もいます。前線で戦死を遂げた山本五十六は、戦時中に国葬もされた偉大な人物とされてきました。にもかかわらず、当時の天皇陛下はこの国葬の必要性に疑問を抱かれたそうです。私たち戦後の日本人は、真珠湾攻撃の持っている歴史的な本質を、いまだに正しく教えられることがありません。

 

◆ そして歴史は隠された ◆

 戦後の日本人は、開戦の経緯と真珠湾攻撃の本質を誰もが正しく教えられておりません。なぜならこれは、グローバリズム勢力が絶対に教えたくない、知られては困る真実の歴史であるからです。だからこそ彼らは歴史を歪曲し、私たちを歴史嫌いに育て、私たちを真実の歴史に近づけないように育てたのです。真実の歴史が広く日本人に知れ渡り、そんな日本人で溢れた国が存在するとどうなるのか、それをグローバリズム勢力は良く理解しています。彼らはそのような日本を、終戦の時からずっと警戒し続けていると言っても良いでしょう。

 日本人が正確に教えられない歴史の中には、開戦前の日本が選ぶべきだった重要な選択肢もありました。大日本帝国がその選択肢を選んだ歴史が進んでいたのなら、アメリカとの戦争も避けられた、極めて重要な選択肢です。さらに、大戦後のグローバリズム勢力が描いていた世界戦略が根底から破壊される可能性もあった、彼らにとっては非常に不都合な選択肢でした。その選択肢こそ、彼らの世界戦略によって建国されたソ連を、ドイツとの挟撃で崩壊に導く戦略でもあった、陸軍と松岡洋右外務大臣が主張していた「北進論」です。

 そもそも共産主義のイデオロギーはグローバリズム勢力が確立し、彼らが裏で支援していたロシア革命によって建国された共産主義国家がソビエト連邦なのです。日本が南進論と北進論で意見が分かれていた状況は、日本国内に潜んでいたスパイからソ連の指導者であるスターリンにはすべて情報が流れていました。戦後、東西の冷戦構造を造る世界戦略実現のためには、彼らは日本の北進だけはなんとしても阻止しなければならなかったのです。

 これは、日本人が知らない海外に証言や回顧録が残っており、それを語っていたのは、チャーチルやルーズベルトらグローバリズム勢力の代理人を背後から指導していたパワーエリート、高位の代理人です。彼らは終戦後、日本は選択肢を誤ったと口を揃えて述べています。あのとき日本は、ドイツと共に東西からソ連を挟み撃ちにすべきだったと。つまり彼らは、日本が北進ではなく南進を選択したことに胸をなでおろしていたわけです。

 だからこそ日本の陸軍は、彼らが作った歴史の中で、いつまでも悪者にされ続けるのです。だからこそ松岡洋右外務大臣は、閣内で暴走したと言われているのです。世界の構造を見抜き、彼らを追い詰める戦略を踏み出すあと一歩のところまで行ったのが、祖先たちが歩んだ真実の歴史です。彼らはこの真実の歴史を、私たちに絶対に知られたくないのです。

 この隠された歴史があるからこそ、今でも彼らは日本人に対しての警戒を緩めません。その理由は、彼らがあらゆる仕掛けで日本を追い込んでも、先人たちはそれを見抜き、仕掛けに対抗する合理的な戦略を練り、その戦略が破壊されてもなお、国を護るために命を投げ出して戦った、先人たちの先見性と精神力が彼らのトラウマになっているからです。

 彼らに追い詰められながらも、彼らの巨大な力を知りながらも、生き延びるために真っ向から彼らに立ち向かったのが先人たちの真実の歴史です。大日本帝国を崩壊させようとしている彼らの真意に気付いた先人たちが選んだ選択は、座して死を待つ選択ではなく、活路を見出す北進や秋丸機関の戦略に掛けた、生き残るための戦いという選択でした。しかし、選択した戦略すらも、最初から仕掛けてあった真珠湾攻撃によって破壊されていきました。

 予定通りの展開を見た彼らは、自分たちが育てた世界最強のアメリカに、日本が勝てるはずがないと高を括っていました。しかし祖先たちは、武器も弾薬も、物資も食糧も底をつきながら、これ以上戦えないところまで追い込まれても、それでも戦い抜きました。そして彼らを大混乱に陥れ、恐怖のどん底に突き落とした最後の抵抗が、特攻による反撃でした。

 彼らに蹂躙されてきた世界中の民族の中で、先人たちの覚悟が体現された特攻隊の反撃ほど、これほど彼らに恐怖を与えた抵抗はありませんでした。それは彼らが一度も経験したことがない、民族全体による猛烈な抵抗だったのです。彼らはこの時に初めて、日本人を追い込む意味と代償の大きさを学びました。

 先人たちが最期の力を振り絞った特攻による反撃に、彼らは心の底から恐怖を覚えました。だからこそ、今でも特攻隊の真実や米軍の本当の被害の大きさを歪曲し続けるのです。特攻をテロリストの自爆テロと同列に語るような、勘違いも甚だしいプロパガンダが横行するのも、それだけ彼らに与えた心理的な影響が大きかったからなのです。彼らはこの時の恐怖体験があるからこそ、いつまでも日本人を警戒し続けるのです。

 彼らがこの時の経験から学んだ日本人の本質とは、どんなに苦しくても抵抗をやめない忍耐力と、我が身を犠牲にしても愛する家族が暮らす祖国を守り抜くという、代償を無視した純粋な行動原理である特攻隊の精神でした。彼らは、多くの日本人の魂の奥底に潜む特攻の精神だけは、100年の時間を掛けても絶対に破壊しなければならないと痛感しました。

 そして、多くの日本人の遺伝子に潜在的に宿る厄介なこの精神は、武士道を始めとした長い歴史を持つ日本の精神文化と、それに支えられた日本独自の人間教育から由来していることを突き止めました。この日本の精神文化と教育を破壊しなければ、いつか再びカミカゼの反撃に直面すると警戒してきたのです。彼らが今でも警戒する民族は、彼らを恐怖のどん底に陥れた先人たちの遺伝子を持って生まれてきた、私たち戦後の日本人なのです。

 戦後の日本人が民族の記憶でもある歴史を消され、私たちを歴史に関心を持たせないように育てた意図は、全てここから始まった日本と日本人の改造計画によるものです。この先人たちが歩んだ真実の歴史を戦後の日本人の多くが知っていたのなら、私たちが生きている現在の日本は、彼らが仕掛けてくる仕掛けを見抜ける国になっていたのかもしれません。

 彼らと先人たちとの歴史を正しく知っていたのなら、人為的なパンデミックもワクチン接種の仕掛けも見抜いていたのかもしれません。高度成長の繁栄が失われ、バブル崩壊から緊縮財政を続け、減税もせず、若者に奨学金という負債を負わせ、どこまでも日本と日本人を貧しくする仕掛けの意図も、全てを見抜ける国になっていたのかもしれません。

 しかし、そのような国を彼らは必要としていません。そのような国は、彼らの最終目標の新世界秩序を支える、世界の構造を解体に導く国になりかねない、世界で最も邪魔で目障りな国と成り得るからです。彼らはカミカゼの遺伝子を持つ戦後の日本人が、二度と彼らの目的を邪魔する危険な国となって立ち塞がることがないように、そのために私たちを歴史嫌いに育て、今でも真実の歴史に近づくことを許さないのです。

 現在を生きている私たちは、日本という国は、いま岐路に立たされています。それは、先人たちの歩んだ真実の歴史を学び、私たち日本人とは何者だったのかに気付き、彼らの新世界秩序を支持しない未来を選択するのか、それとも彼らに育てられた歴史さえも受け入れ、彼らの新世界秩序に従い、子供や孫たちを彼らに屈服させる絶望的な未来を選択するのか、私たち戦後の日本人は、その選択の岐路に立たされているのです。

 近い将来、この選択の過程で日本人にも国民的な分断が起こるかもしれません。しかし忘れないで下さい。グローバリズム勢力は、将来の日本人の分断さえも想定の範囲内です。彼らは分断させた両方を支援する存在であり、世界で常に彼らが行ってきたことは、いつの時代でも、どこの国でも分断と争いを煽り、両建てで支援をしながら世界の支配構造を造ってきた存在であることを。その世界構造の中で、今も私たちが生かされているということを。

彼らの思惑を超える知恵を、なんとしても歴史の中から見つけ出さなければなりません。

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